左遷されても諦めないで|左遷先で歴史に名を残した司馬光に学ぶ(前)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
あなたは努力していたのになぜか左遷されて落ち込んだことはないでしょうか。
能力不足だったり重大なミスをしてしまったのなら左遷になるのも仕方がないと納得できますし、経験を積ませる目的だったり当地の指導のために地方勤務になることもあります。
しかし、組織の欠陥を指摘したがために憎まれて左遷、派閥争いに負けて左遷、上司より優秀だったために恐れられて左遷、などと理不尽なこともあるようです。
順風満帆に進んできた人ほどショックのあまり、
「出世街道を歩んでいたはずなのに左遷させられた。もうダメだ」
「俺を左遷するような会社のために仕事する気が起こらない」
「アイツが出世して俺が左遷されるなんて…。もうやる気が無くなった」
と崩れて、落ちぶれてしまう人が多いそうです。
しかし中には左遷先で結果を出し、中央に返り咲く人もいます。
やる気を失って落ちぶれる人と、結果を出して返り咲く人とどこが違うのでしょうか。
中国の宋の時代に活躍した司馬光(しばこう)を例に考えてみましょう。
左遷の語源
ちなみに「左遷」とは今までより低い地位に就かせること、地位を低くして遠地に赴任させることを言います。
歴史上最初に「左遷」させられたのは漢王朝を建国した劉邦(りゅうほう)です。
劉邦が左遷させられた当時は項羽(こうう)という将軍の下におり、劉邦には功績はありましたが項羽といざこざがあったために、功績の褒美としてその時の首都であった咸陽(かんよう:現在の陝西省咸陽市。西安の西隣にある都市)のはるか西にあるド田舎の巴蜀(はしょく:現在の四川盆地)と漢中(かんちゅう:現在の漢中盆地)の土地を与えられました。
劉邦が咸陽から巴蜀・漢中に移ったとき、それを韓王信という部下が↓のように「左遷」と呼んだのが「左遷」という言葉が使われた最初です。(もちろん中央から地方に飛ばされた人はその前にもたくさんあったでしょうが)
「項王、諸將を近地に王となし、王、獨り此に遠居す。此れ左遷なり」(『史記』韓信盧綰伝)
(項王は諸将を都に近い土地の王にしたのに、劉邦様だけが遠い土地にいます。これは左遷です。)
なぜ「左」なのかは、地図上で咸陽より巴蜀・漢中が「左」にあったから、あるいは中国の戦国時代には右側より左側を下位としたので、首都から田舎に行かされたことを「左」と呼んだからと言われています。
劉邦について詳しくはこちらの記事を御覧ください。
ワンマン上司になっていませんか?|素直な劉邦とワンマン項羽の教訓
劉邦は左遷させられた先で力を蓄え、やがて項羽を破って400年続く漢王朝を建てるのですから、史上初の「左遷」をさせられ、史上最高の返り咲きをした人物と言えるでしょう。
左遷させられる前の司馬光
話を司馬光に戻しましょう。
司馬光は宋(960年 – 1279年)の時代の人で、宋建国から100年余りが経った頃に活躍した人物で、最大の功績は『資治通鑑』(しじつがん)という歴史書の編纂です。
幼い頃から賢い子供だったようで、小さいとき庭で友達と遊んでいたところ友達の一人が水がめの中に落ちてしまったのですが、他の子供たちがオロオロする中で司馬光はとっさに石で水がめを割って友達を助けたというエピソードがあります。
50歳で合格しても若い方と言われる科挙の進士科に19歳で合格して官僚となり、地方を巡りながら出世を重ねて宰相にまで上り詰めました。
当時の宋は建国時に制定した法律(旧法)が破綻しかかっており、首席宰相の王安石(おうあんせき)が新しい法律(新法)を作って改革を進めていました。
この新法に主として反対した人物が司馬光です。
宮中では新法派と旧法派の派閥が生まれ、王安石と司馬光は強く対立して争いました。
これを「新法・旧法の争い」と呼びます。
王安石は旧法派を容赦なく排除して新法を推し進めますが、その中で司馬光は首都の開封(かいほう:現在の河南省開封市)から副都の洛陽(らくよう:現在の河南省洛陽市)に左遷されてしまいます。
司馬光が53歳の時でした。
若くして神童、秀才と讃えられて順調にエリート街道を歩んできた司馬光でしたが、中年になって政争に負け、地方に左遷されてしまったのです。
左遷先での隠居生活
洛陽に着いた司馬光は
「今まで地方で任に就いて各地を巡ったが、ようやく司馬家が身を興した洛陽に来ることができた。宮中の喧騒を離れて功績を収めることができるのはいいことだ。世の中が平和だから農作業に勤しむ村里の一老人になれたのだ」
と争いから離れられた喜びと、左遷された悲しみを自虐的に詩に詠んでいます。
洛陽に赴任してしばらくは、自然の中に生きることに楽しみを見出して、粗末な衣服を身に着け、粗末な食事をして、獨樂園という100m四方ほどの庭園を造り、その中に建てた小屋で読書をしたり、庭を散策したり、池で釣りをしたりと地味ですが悠々自適な生活をしていました。
しかしその司馬光の平穏を破る出来事が起こりました。
開封にあった『資治通鑑』(しじつがん)の編纂書局が閉鎖の危機に見舞われたのです。
次回に続きます。
こんぎつね
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