他人の評価を気にしていませんか?|悪女と言われた女帝・武則天(前)

こんぎつね こんぎつね


こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。

あなたは他人からの評価で一喜一憂していないでしょうか。

「多くの人から誉められたい」
「あの人からかっこいい人、かわいい人だと思われたい」
「職場で『仕事ができる人』と思われたい。役立たずだと思われたくない」

こういう心で毎日不安になっていないでしょうか。

特に女性は周りからの評価を男性よりも気にしやすいようです。

大昔の人類は男性が狩りで外に出かけている間、女性が村を守っていました。

もしも村の中で悪い評価を受けてしまったら孤立して生きていけません。

そのころの名残が今も残っていて、女性の表情認知能力は男性のそれよりも高いことがわかっています。

集団内で評価が下がることは死活問題だったのです。

その影響からか、周りの評価に囚われないサバサバした性格の強い女性を題材にしたドラマや映画が人気なようです。そんな生き方に憧れるからでしょう。

その知名度と波乱に満ちた人生から、よく映画やドラマの題材にされる武則天という女性がいます。

(参考:武則天―The Empress―

武則天は中国の唐の時代に生き、周りからどう思われようと意志を曲げずに権力を握った中国史上唯一の女性の皇帝です。

「巧慧にして権数多し」(『資治通鑑』)
「権数ありて詭変窮まらず」(『新唐書』后妃伝)

など後世に「悪知恵に長けていた女だった」と評価され、清の時代の歴史家には「過去に色々な非道を行った皇帝はいたが、武則天ほど残忍な者はいなかった」と言われ、中国三大悪女の1人として悪名高い彼女ですが(あとの2人は劉邦の妻の呂雉と清の西太后)、なぜそんなに悪女という評価を受けることになったのでしょうか。

(参考:『旧唐書』本紀第六 則天皇后
『新唐書』巻四 本紀第四
『新唐書』巻七十六 列伝第一 后妃上
『資治通鑑』巻第一百九十九~二百八)

14歳で側室へ

武則天は元は媚娘(びじょう)という名前で、実家が資産家だったため英才教育を受けて育ちました。

14歳で太宗(唐の2代皇帝・李世民のこと)の後宮に入り、才人(側室の中でも下位の地位の名前)の位に就いて「武媚」という名前をもらいます。

ある時のこと、太宗は師子驄(ししそう)という馬を持っていたのですが、気性が荒かったため誰も乗りこなせませんでした。

そのとき武媚が

「私は3つのものがあればこの馬を調教して見せます。1つめは鉄のムチ、2つめは鉄の槌、3つめは匕首(あいくち、ナイフのこと)です。まず鉄のムチで殴って、それでも従わなければ鉄の槌で殴りつけます。それでも従わなければ匕首で首を裂きます」

と太宗に言いました。

これが14歳~26歳の間の出来事ですから、この頃から激しい性格だったようです。

その後太宗は病気にかかり、日に日に悪化していきました。

当時の風習では皇帝が死んだ後は側室は尼にならなければならないという決まりがあったため、武媚は別の相手を見つけようと考えました。

目を付けたのは太宗の息子の李治です。
武媚は李治より4歳年上でしたが李治は武媚に夢中になりました。
李治は不健康で気弱だったため、強い女性である武媚に魅力を感じたのかもしれません。

そして太宗は死去し、武媚は慣習の通り尼になります。
太宗の後を李治が継ぎました。李治が皇帝になった後の名前を高宗(こうそう)と言います。

後宮への復帰

あるとき、高宗は感業寺という寺に行きました。
ちょうどそこは武媚が出家した寺でした。

焼香のときに思いがけず武媚を見かけた高宗は驚きました。
武媚は涙を流し、それを見た高宗もまた涙を流しました。

このようなことがあったと聞いた、高宗の正妻である王皇后は一計を案じます。

そのころ後宮では高宗の寵愛を巡って、正妻の王皇后と側室の蕭淑妃(しょうしゅくひ:淑妃とは側室の名前で上から2番目の地位)が暗闘を繰り広げていました。

しかも王皇后には高宗との間に子供ができなかったため焦りがありました。

そこで高宗が気になっている武媚を呼び戻せば、蕭淑妃(しょうしゅくひ)への気が逸れるのではないかと考えたのです。これが王皇后の人生最大の失敗とも知らずに…

王皇后に勧められた高宗は武媚を後宮に呼び戻し、武媚は昭儀(側室の名前で上から5番目の地位)として再度後宮に入ることになりました。

後宮での策略

武媚には他人の心を操る力他人の能力を測る力に類(たぐい)まれな才能があり、この才能を使って権力を勝ち取っていきます。

賢い武媚は初めは腰を低くして王皇后に仕えたので王皇后は武媚を気に入り、高宗に武媚のことを誉めて話したので、高宗の武媚への寵愛は一層深まりました。

王皇后の目論見は当たり、蕭淑妃(しょうしゅくひ)への寵愛は武媚へと移りましたが、王皇后への寵愛も薄れてしまいました。

王皇后も蕭淑妃も高宗に文句を言いますが、武媚に夢中になった高宗にはその言葉が届くことはありませんでした。

高宗の寵愛が自分にかかっていることを知った武媚は皇后の座を狙い始めます。

あるとき、武媚が女の子を出産しました。
高宗と武媚にとっては待望の我が子のはずですが、ここで武則天が悪女と呼ばれる1つの事件が起こります。

王皇后が用事があって武媚の元を訪れたところ、部屋に武媚がいませんでした。王皇后が来ると聞いてわざと隠れたのです。

王皇后「あれ?武媚がいないわ。どうしたのかしら?…まあかわいい赤ちゃん、おお、よしよし」

王皇后には子供がいなかったので生まれたばかりの赤ちゃんをかわいがり、一通りあやして帰っていきました。

王皇后が帰ると隠れていた武媚はスッと出てきて、赤ちゃんを絞め殺して、顔に布をかけておきました。

しばらくして高宗が赤ちゃんの様子を見に来たので、武媚が赤ちゃんの布を外すと赤ちゃんが死んでいます。

武媚は驚い(たフリをし)て、泣いて召使いに尋ねました。

武媚「ううっ、何でこんなことに…誰か先ほど来ませんでしたか?」
召使い「ああ…えっと…、こ、皇后さまがいらっしゃいましたが…」
高宗「なにっ!では皇后が我が娘を殺したのか!」

ただちに皇后は呼び出されますが、「そんなことしていません!」といくら言っても、そのときは1人だったため身の潔白を証明できません。

この事件で高宗は王皇后の廃立を考えるようになり、家臣たちの間でも

「陛下は武媚さまを皇后にしたいと思っていらっしゃる。それを支持すれば出世できるんじゃないか?」

と考える人が増えてきました。

武媚は自分を支持した家臣をことごとく出世させました。

先代の太宗の頃から仕えている重臣たちは

「皇后様は先帝が陛下のために選ばれたお方です。それを何の罪科もないのに廃して、しかも先帝の側室を皇后にするなんてありえません!」

と猛反対でしたが、重臣の一人の李勣(りせき)に尋ねたところ、李勣が

「これは陛下の家庭のことです。どうして他人に聞く必要がありましょうか」

と答えたため、「確かにそうだ」とついに高宗は決意して、王皇后と蕭淑妃(しょうしゅくひ)は高宗の毒殺を謀った(陰謀下毒)と冤罪をかけられて庶人に落とされ、武媚が皇后となり武皇后となりました。

王皇后と蕭淑妃は幽閉されました。

剔其手足

王皇后と蕭淑妃(しょうしゅくひ)のことを気にかけていた高宗が幽閉されている部屋に様子を見に行くと、部屋は密閉されていて、食事を通す穴が開いていただけだったため、かわいそうに思って声をかけました。

高宗「皇后、淑妃、元気か?」

王氏「私は庶人に落とされた身。皇后なんて呼ばないでください。もしも陛下が昔をお忘れにならないなら、私たちにもう一度お日様を拝ませてください」

高宗「ああ、それについてはもう考えてある。心配するな」

このやり取りを聞いた武皇后は怒り、王氏と蕭氏を百叩きの刑にした後に手足を切断し、「骨まで酔いなさい」と言って酒瓶の中に放り込み、首から下を酒漬けにしました。

2人は数日間苦しみ続けて死んでいきました。

その後、王氏の一族を蟒(うわばみ:蛇の一種)氏に、蕭氏は梟(ふくろう:子が親を食べる不孝の鳥とされていた)氏に改姓させました。

→<a href=”https://www.kokoro-odayaka.jp/kokoro/23946/” target=”_blank>後編に続きます。

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こんぎつね

こんぎつね

チューリップ企画デジタルコンテンツ事業部にてサポートとインターネット業務にも携わっているこんぎつねです。(こんぎつねの記事一覧へ)チューリップ企画に来る前は愛知県で主に60代以上向けのイベントを運営していました。人について学ぶのが好きで、大学では生物学を専攻しました。よく読む本のジャンルは心理学、脳科学など人の心や体の行動に関するものが多いです。ブログもそれらの本を参考に、この悩みは 仏教ではこう解決するという内容を専門語を使わずになるべくわかりやすい言葉で発信することに心がけています。もっともっと多くの方の悩み疑問にお答えしたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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