闘病生活で苦しみながらも 心からの「幸せ」を喜んでいる人たちがいる
こんにちは。”伝わる”技術研究家のみさきです。
私が仏教を聞くきっかけとなった出来事の一つに祖母の闘病生活があります。
初めて仏教の教えを聞いたときに、祖母のことを思い出さずにはいられず、「もっとこの話、聞きたいな」と思いました。
長引く闘病生活に祖母が「もう死にたい…」
闘病生活は、患者本人も、介護をする家族も辛いものです。
私の祖母は61歳で舌ガンと診断され、その後、2度ガンを患い、闘病生活を繰り返して、83歳で亡くなりました。
3度目に舌ガンが見つかった時、医師の話は「手術をしても成功するかどうかは分かりません。ガンを摘出できたとしても、舌の痛みは残るでしょう」ということでした。
祖母の意思で手術は受けずに、通院で抗がん剤治療、在宅で闘病生活をすることにしました。
祖母はこれまで2度同じガンと闘ってきましたので、その時、入院での闘病生活の辛さを思い返したのだと思います。
3度目のガンでは舌の腫瘍が大きくなり、痛みで食事を口から入れることができず、胃ろうで栄養を取り入れる生活になりました。
少し体調の良いときは、一口のパンを口から食べられることがあり喜んでいましたが、それも続きません。
泣きながら、痛みと闘っていました。
趣味のダンスを楽しんでいたのができなくなり、口から食べられていたのが胃ろうになり、毎日散歩をしていたのがほとんど歩けなくなりました。
家族交替で介護をしていて、私は祖母とよく話をするようになりました。
その中で、胃ろうの管につながれた祖母から何度か聞いた言葉があります。
「もう死にたい…」
老いや病気の苦しみに勝てる「幸せ」はあるのか?
祖母から「もう死にたい」という言葉を聞いた時、どう答えたらよいか分からず沈黙が続きました。
最後に楽しい思い出を作ったらよいのか、
これ以上苦しまずに楽に死なせてあげたらよいのか、
老いや病に勝利できる幸せはあるのか…
その時に考えさせられました。
人生の最後にこんなつらい思いをするために生きてきたのかと、祖母本人も家族も心が折れそうでした。
冷静に人生を見つめれば、親も自分も生きている限り、やがて必ず死に直面するときが来ます。
「やがて死ぬのに、なぜ苦しい思いを我慢してまで、人は生きなければならないのかな」とつらい顔をする祖母の姿に考え込んでしまいました。
闘病生活に苦しむことになっても、心からの「幸せ」があると思えたのは
その後、人間関係で悩んだときなどに、心理学や脳医学の方面から、または自己啓発、スピリチュアルの面からアドバイスしてくれる本を学んだりしたこともあったのですが、何か違うな、といつも感じていました。
もちろんそれはそれで心を軽くする大事な心得を学ぶことができたと思うのですが、生と死という人間の最も重く、得体の知れない問題には何も触れていない内容だったので、こんな話をどれだけ聞いてもあの時のおばあちゃんの暗い心を明るくすることはできないだろうな、何か表面的な内容だなと、どこか冷めた感じを持っていました。
そんな私が「ここには何か答えがあるかもしれない」と初めて思ったのが仏教でした。
シッダルタ太子(のちのお釈迦さま)は、老いと病と死を抱えた人間の現実に驚き、老いて必ず衰えていく人間が、それでも為さねばならない人生の目的は何かを模索し、仏の悟りを開いて答えを示した人だと知ったからです。
お釈迦さまなら、あのときの「もう死にたい」と言っていたおばあちゃんにどう話しかけるだろう…
私自身に老いと病と死が迫り、「なぜ生きねばならないのだろう」とむなしく感じたときにお釈迦さまならどう言われるかな、と知りたくなり、仏教を続けて聞いてみようと思ったのです。
まとめ
大切な家族が、あるいは自分が長く闘病生活を続けていると生と死について考えるようになります。
苦しい闘病生活に、大切な家族が「もう死にたい」と言われる人もあると思います。
生と死のはざ間に直面すると、楽にさせてあげたいという心と、どんな姿でも生きていてほしいという心の葛藤に悩まされます。
お釈迦さまは、そんな苦しい人間の実態のままで、どんな人も「心から喜べる幸せがある」と教えてゆかれた方でした。
少しでもこの記事がご参考になれば嬉しいです。
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