子供を亡くした悲しみを抱える人にお釈迦さまのなされた処方とは

こうへい

こんにちは。こうへいです。

弊社発行の月刊誌『とどろき』を通じて、多くの読者の方と触れ合う機会があります。
それらの方から様々な悩みをお聞きすることがありますが、子供を亡くされた苦しみを話される方があります。
親にとって、子供を亡くす以上の苦しみはないと言ってもいいのではないでしょうか。

目次

  • 子供を亡くした悲しみを抱えている方との出会い
  • 子供を亡くした人にお釈迦さまはどう接せられたのか
  • まとめ

子供を亡くした悲しみを抱えている方との出会い

20代の娘を白血病で亡くされたお母さんとお会いしたことがあります。
約1年間の娘さんの闘病生活をずっとそばで支えておられたそのお母さんは、大切な娘を亡くした喪失感に加えて、ずっとそばにいたのに何もしてやれなかった後悔と自分への怒りに苦しんでおられました。
そしてこの苦しみは何十年経っても消えることのない苦しみのようです。
別のときにお会いした80代の男性は、「50年程前に子供を病気で亡くした。そのことを妻は今でも自分のせいで子供を死なせてしまったと苦しんでいるようだ。不憫(ふびん)でならない」と言われていました。

子供を育てるのは、本当に大変だと子育て中の姉からよく聞かされます。
子供がいるとお金もかかるし、時間も取られる。
それでも子供を望む夫婦が多いのは、子供がかわいいからでしょう。
自分が苦労をしても、自分が不自由な思いをしても、子供のためとなったら、その苦労も不自由さも受け入れられるのが親だと言われます。
それほど愛してやまない我が子が、自分より先に亡くなってしまう。
これはとても受け入れられることではないでしょう。
そして多くの方が我が子を亡くした悲しみが自分を責める思いとなっていくようです。

子供を亡くした人にお釈迦さまはどう接せられたのか

お釈迦さまにまつわる説話の中に、こんな話があります。

お釈迦様がおられた時代のインドにキサーゴータミーという女性がいた。
キサーゴータミーは玉のようにかわいい男の子を生んだが、流行り病にかかって亡くなってしまった。
しかしそのことを受け入れられないキサーゴータミーは町に飛び出していき、行き会う人々にだれかれとなくすがりついた。

「大事な一人息子なんです。どうか、どうか」

会う人見る人、その哀れさに涙を流したが、死者を生き返らせる人などあろうはずがない。
あまりのことに見かねて、ある人が彼女にささやいた。

「舎衛城(しゃえじょう)にましますお釈迦様に聞かれるがよい」

早速、キサーゴータミーは、お釈迦さまを訪ね、泣く泣く事情を訴え、子供の生き返る法を求めた。
哀れむべきこの母親にお釈迦さまは、優しくこう言われている。

「あなたの気持ちはよく分かる。いとしい子を生き返らせたいのなら、私の言うとおりにしなさい。これから町へ行って、今まで死人の出たことのない 家から、ケシの実を一つかみもらってくるのです。すぐにも子供を生き返らせてあげよう」

早速、街に向かって走りだそうとするゴータミーの背中に向かって、

「ただし、どんなケシでもいいのではない。今まで死人の出たことのない家から、もらってくるのです」
とお釈迦様は念を押されたのだった。

彼女は、ただただ夢中で駆け続け、目についた家からしらみつぶしに訪ねていく。

「ごめんください、ケシの実をもらえませんか。この家でなくなった人はありませんね」
“昨年、父が死にました”と出てきた男性がいう。

「ケシの実をください、お宅で死人をだしたことありませんね」
“いいえ、夫が今年、亡くなったばかりですよ”と、今度は老女が答えた。

「お宅で死んだ人はありませんよね」
悲しげな表情で出てきた若い女性は、
“実はついこの間、子供を亡くしました”
と涙ながらに語った。

次々と訪ねては聞いていく。どの家庭にもケシの実はあるが、死人を出さない家は一軒としてなかった。

やがて日も暮れ、夕闇が街を包むころ、もはや歩く力も尽き果てた。
トボトボとお釈迦様の元へ戻ってひざまずく。

「ゴータミーよ、ケシの実は得られたか」

「お釈迦様、死人のない家はどこにもありませんでした……私の子供も死んだことがようやく知らされました」

「そうだよ、キサーゴータミー。人は皆死ぬのだ。明らかなことだが、分からない愚か者なのだよ」

「本当に馬鹿でした。こうまでしてくださらないと、分からない私でございました。
こんな愚かな私でも、救われる道をお聞かせください」

キサーゴータミーは、わが子の無常を縁に己に迫る一大事を知らされて、仏法を求めるようになったといわれています。

(『とどろき』紙面より)

次のような言葉が仏教にあります。

夢の世を あだにはかなき 身と知れと
教えて還(かえ)る 子は知識なり

仏教では、知識とは仏教の先生、私たちを本当の幸せへと導いて下さる方を言われます。
亡くなっていった子供は、私に大切なことを伝えに来てくれたのだということです。

まとめ

悲しみが消えることはないでしょうが、自分を責めるのではなく、亡くなった子供を思う気持ちがそのまま、その子は何を伝えに来てくれたのかを考えることにつながれば、その子は何よりも喜んでくれることになるのではないでしょうか。
先に触れたお母さんも、娘さんが何を伝えに来てくれたのかという思いに変えようとされています。

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こうへい

チューリップ企画で動画制作を担当しています。
大学生のときに同じことの繰り返しの毎日にどんな意味があるのかと悩みました。しかも友人に相談しても分かってくれる人がなかったことが大きな苦しみでした。
その時に読んだ仏典の言葉に励まされました。その後、講演会の運営の手伝いをする機会があり、さまざまな悩みを持って参加した多くの人たちの声を聞かせてもらいました。私も学びながら、皆さんの悩みに寄り添っていける情報を発信していけたらと思っています。
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