オウム真理教事件は私たちに「何」を残したのかを考える
こんにちは。”伝わる”技術研究家のみさきです。
7月にオウム真理教事件の死刑囚13人の死刑が執行されました。
20年ほど前、オウム真理教の総本部が東京渋谷区にあり、私は高校が渋谷にあったこともあり、通学途中、よく渋谷の駅前でオウムの独特の白や緑色の服を着た人たちが10人ぐらいで、チラシを配っているのを見かけました。
ちょうどテレビでオウム真理教が取り上げられ始めた時期でしたので、この人たちがオウムなんだなと思いながら、なるべく声をかけられないように、ちょっと避けて通り過ぎていました。
ただその時はまさか殺人集団だとは思わなかったので、事件が明るみになった時には驚きました。
あの時、渋谷の駅前でチラシをまいていた人たちは、20-30代ぐらいでしたので、もしかしたらこの度死刑になった人もあの中にいたのではないかなと、今になって思い出します。
少なからず異様な雰囲気はあったものの、一人一人の雰囲気は、質素で、真面目な印象を感じており、とてもあんな恐ろしい事件を起こすような感じはありませんでした。
あれらの人たちが死刑になった今、どこで人生の道を間違えて進んでしまったんだろうかと考えさせられています。
人生の師を間違えるほどの不幸はない
人生では、学生時代、社会人、また結婚して妻(夫)となり、母(父)となった後も色々な人と出会いますが、どんな人と出会うかによって、大きく変わります。
時には自分でも「どうしてこうなってしまったのか」と思うぐらい大きく変わってしまうことがあると、オウム真理教の事件を通しても知らされます。
真相は分かりませんが、洗脳が解かれ、死刑執行前に「自分がした行為は人間として許されない」と供述した死刑囚もあったと聞きます。
人生の師を間違えるほど、不幸はないということがわかります。
オウム真理教に陶酔した人は若者が多く、東大や京大、慶応や早稲田など、高学歴の人が少なくなかったといいます。
なぜ、このような学歴の人たちが、麻原彰晃を人生の師に選んでしまったのでしょうか。
「生きる意味」がわからない苦しみが、心を迷わせる
オウム信者の入信動機の手記を読むと、そこには、若い時の挫折経験や、社会の中で自分の居場所がない、などの生きてゆく孤独の苦しみが窺(うかが)えます。
そんな暗中模索の学生時代に、目の前に現れた強い衝撃を持つ人物が麻原彰晃だったのだと思います。
元信者の中には、「自分の存在意義に、正面から答えてくれたのは教祖麻原だけだった」と漏らした青年もいたといいます。
地下鉄サリン事件の実行犯で、死刑執行となった広瀬健一も、そんな一人でした。
自分の犯した罪はいかなる刑罰に服そうにもかなわないが、せめてこのような惨劇の再発を防止するための一助となることを願い、次のような手記を若者に向けて遺しています。
「生きる意味は何か」皆さまは、この問いが心に浮かんだことはありますか?
この質問から始めた理由は、それが皆さまの年頃の人たちが抱きがちな問題であり、また若者がカルトに関わる契機ともなり得るからです。
(後略)
(手記より引用)
広瀬元死刑囚は、大学院時代に発表した論文が、世界トップサイエンスと評されるほどの秀才だったようです。
しかし「自分が存在する意味は何なのか」「なんのために生きるのか」が分からずに迷走し、藁(わら)をもつかむ思いで麻原彰晃にしがみつき、優れた知識を地下鉄サリン事件という惨劇に使ってしまいました。
まとめ
「生きる意味は何か」がわからず、もがき苦しむのは、オウムの若者だけではありません。
シッダルタ太子もそうでした。
のちに仏の悟りを開かれて「ブッダ」「お釈迦さま」と呼ばれることになる方です。
2600年の古、シッダルタはインドの国王の太子として生まれられ、物心つくご年齢の頃には、あまりの聡明無類さに、インド一の学者や武芸の達人が自信を喪失するほどであったといわれます。
そんな誰もが羨望(せんぼう)する存在であったであろうシッダルタ太子が、やがて老い、病気となり、必ず死んでいく人間は、なぜそれまで生きるのか、生きる意味は何なのか、非常に悩まれたのです。
このことについて残されているのが有名な四門出遊のエピソードです。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
→お釈迦様の四門出遊
みさき
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