ALS患者が望んだ“安楽死”を仏教の視点から考える|安楽死と生きる意味
こころ寄り添う研究家の九条えみです。
7月下旬に、難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した女性患者から依頼を受け、薬物を投与し殺害させたとして2人の医師が逮捕されました。
ALSとは筋肉が徐々に動かなくなる病気です。口や喉の筋肉が動かせなくなると会話や、食べ物を飲み込むことができなくなり、呼吸する筋肉が弱まると、人工呼吸器なしでは生存できなくなります。
ALSは一度発症すると症状が軽くなることはありません。
医師に殺害を依頼したALS患者は「こんな身体で生きる意味はないと思う」「安楽死させてほしい」とブログやTwitterに投稿していました。
安楽死には肯定派・否定派それぞれいますが、問題の本質について当ブログでは仏教の視点から考えてみたいと思います。
ALS患者が安楽死を望んだのは
ALS患者の女性(当時51歳)は、SNSで知り合った医師に依頼して、2019年11月に薬物を投与され亡くなったと報道されています。
2011年にALSを発症し、亡くなる前には24時間介護を受けて生活していました。胃ろうによって胃から栄養を注入され、自分の意思で動かせるのは眼だけ。ブログやTwitterへの投稿は、視線入力装置でパソコンを操作していたのでした。
そんな彼女も、ALSを発症するまでは、建築家を目指してアメリカに留学し東京の設計事務所で働く、いわゆるキャリアウーマンの部類に入る人でした。
病気で身体は動かせなくても、SNSの発言からは、理路整然と自分の意見を発する聡明さや、テニス観戦を楽しむ豊かな感性などがうかがえます。
(参考:ダイヤモンド・オンライン「ALSを生き抜いたスーパーウーマンが、「安楽死」しか選べなかった理由」
自分の力でキャリアを重ねていた女性が、突如、身体の自由が徐々に奪われていく恐怖。誰かの介助なしには生きられなくなる惨めさ。そんな心情がブログやTwitterに溢れていました。
以下は、女性のブログやTwitterからの引用です。
最近唾液が飲み込めず、1日中むせて咳き込んでる。
すごく辛い。早く楽になりたい。
なぜこんなにしんどい思いをしてまで生きていないといけないのか、私には分からない。
どうしても分からない。(2018年5月3日投稿のブログより)
唾液が垂れないようにペーパーと持続吸引のカテーテルもくわえ、操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ。
(2019年6月13日投稿のTwitterより)医師は気持ちは分かると言うけれど現状を理解していると思わない
常に身体的苦痛・不快を抱え、手間のかかる面倒臭いもの扱いされ、「してあげてる」「してもらってる」から感謝しなさい
屈辱的で惨めな毎日がずっと続く
ひとときも耐えられない
#安楽死 させてください(2019年9月17日投稿のTwitterより)
症状が軽くなることはなく、ただ死を待つだけの病気。
それならば、早く楽になる方法は「死ぬしかない」と考えざるを得ないのも否定できないと思いました。
日々の楽しみや生きがいは健康あってこそ
日々の生活で「これが楽しみ」「生きがいだ」というものをそれぞれ持っていると思います。
年に一度の海外旅行を励みに仕事を頑張っている人もいれば、車やバイクが好きで週末のドライブでリフレッシュするという人もいます。このドラマだけは欠かせない!という人もいれば、仕事終わりのデザートに癒されるという人もあるでしょう。
これらの日々の楽しみや生きがいを考えてみると「健康」が大前提ということが分かります。
私は仕事柄、ご年配の方とお話しする機会が多いのですが、老化や病気で不自由な思いをされている話をよくお聞きします。
糖尿病では好きなものを好きなだけ食べることはできませんし、白内障になってしまえばテレビを観るのも億劫になります。海外旅行やドライブも、脳梗塞で後遺症が残り寝たきりになってしまえば自由に外出するのもままならなくなります。
健康な時には楽しめたことも、老いや病によって楽しめなくなることがあります。
安楽死を望んだALS患者の女性も、自分の生きたいように生きる自由が取り上げられ、代わりに与えられたのは、不自由な身体で生きなければいけない屈辱でした。
生物であるかぎり、いつかは誰しもが老いや病と直面することになるでしょう。
このALS患者の苦しみは、私たちの知る楽しみや生きがいの限界についても問題提起してくれているのです。
安楽死・自殺の根本原因とは
今回の事件によって「生きる権利があるならば死ぬ権利もあるはずだ」「安楽死はその選択の一つ」という論調の記事やコメントが見受けられました。
本能的に死を避けるのが生物であり人間であると言われますが、自ら死を選ばざるを得ないほど今を生きるのが苦しいのです。
「死ぬ理由」に勝る「生きる理由」が分からない。
これが、安楽死そして自殺の根本原因ではないでしょうか。
「延命してまで生きる意味はあるのか」
「痛い苦しい病気と闘う理由はあるのか」
「今の苦しい現状と打ち勝っても生きる価値が人生にはあるのか」
これら、苦しくても生きなければならない理由は何か?
生きる意味はあるのか、ないのか。
生きる理由が分からないのに「頑張って生きて」と言われても簡単に受け入れられないでしょう。
安楽死など「死に方」の前に先んずべき「生きる意味」の議論
この生きる意味についての議論は、考えても迷宮入りするからか、公で議論される声は聞こえてきません。
生きる意味は考えない、もしくは「考えても分からない」で片づけられているのに、生きる手段は様々に議論され改善もされています。
たとえば医療分野では、ガンの痛みを緩和させるためモルヒネという麻薬を投与するなど、身体的な苦痛を除く方法は開発されています。
また、今回のALS患者も「ALS患者が安楽に逝く方法」というブログタイトルで、早く楽に死ぬための方法を模索していました。
たしかに身体的な苦痛を緩和させる「死に方」の議論も大事でしょう。
しかし、それに先んずべき問題こそ「苦しくても生きなければならない理由は何か」「生きる意味は何か」ではないでしょうか。
手段とは、目的達成のために存在します。
目的が先にあって、その後に出てくるのが手段です。
様々に議論される死に方とは「人生の終わり方」の問題であって、手段の話です。
手段ばかりが先行し、肝心の目的が抜け落ちているおかしさを天才科学者アインシュタインも鋭くついています。
手段の完璧さと、目的の混乱。この2つが私達の主な問題に見える
手段は完全になったというのに、肝心の目的がよくわからなくなったというのが、この時代の特徴と言えるでしょう
仏教が説く生きる意味とは
では、仏教では生きる意味をどう教えているのでしょうか。
仏教を説かれたお釈迦さまに次の言葉があります。
天上天下 唯我独尊(てんじょうてんが ゆいがどくそん)
三界皆苦 吾当安此(さんがいかいく ごとうあんし)(天上にも地上にも、人間〈我〉のみの独尊あり。
人生〈三界〉はみな苦なり。
吾〈釈迦〉当に此を安んずべし)
この言葉は「ただ我々人間にのみなしうる、たった一つの尊い目的(独尊)がある。仏教を聞けば、どんな人も本当の幸せになれる」という意味です。
(くわしい解説はこちら→「天上天下唯我独尊」 お釈迦さまの誕生日は4月8日 )
話を戻すと「延命してまで生きる意味はあるのか?」と問われると「ある」と仏教では答えます。
生きている今、男女、年齢、貧富の差、人種や民族に関係なく、誰でも絶対の幸福になれる。これが、私たちが人間に生まれてきた本当の意味であり、今がこの幸せになれる最大のチャンスと仏教では説かれます。
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このように生きる意味を教えている仏教から見ると、自殺という行為は「大事なことを知らない、無知から来ている」と危惧します。
お釈迦さまの時代にも自殺しようとしている人がありました。
その人に対してお釈迦さまはどのような言葉をかけたのでしょうか?
「死にたい、死なせて下さい」この声を聞かれたお釈迦さまの答えは
九条えみ
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