人生最後の日を考える|亡くした人の追悼を通して

ヒロ☆カズ ヒロ☆カズ

心穏やかアドバイザーのヒロカズです。

今年も追悼法要の案内が届く時期になりました。

案内を受け取ると学生時代に亡くした友人を思い出します。

今日は人生最後の日を通して考えてみたいと思います。

人生最後の日を意識する

ライブ配信サービスSHOWROOMの社長である前田裕二さんの半生を書いた『人生の勝算』という本の中に次の一節があります。

前田裕二さんは8歳で両親を失い、生きるために小学生で路上ライブを始めたことが、今の人生観、仕事観につながっていると言われます。

なぜそこまで息苦しく追い込んでいくのか。

それは、身近な人の死を何度か経験して、人生には終わりがあるという至極当たり前のことを、強烈に意識するようになったからです。

今こうしているうちに人生の残り時間が、刻々と減っていると感じています。

人は死にます。

必ず、死にます。

どんなに幸せで満たされた時間を過ごしていても、僕たちはみんな、死に向かって生きているのです。

そう強く意識しているので、1日の密度をできるだけ濃くしたい。

1分も無駄にしたくない。

『人生の勝算』

人生最後の日をどれだけ意識するかで、その人の時間に対する感覚、物事への取組み方が変わってきます。

事実、意識しようと意識しないとに関わらず、必ずやってくるのが人生最後の日です。

それは今日かもしれませんし、明日かもしれません。

人生最後の日は最も身近な問題?

何の前触れもなくやってくるのが人生最後の日だと言われます。

学生時代に亡くなった友人も前日まで元気だったのに、突然目の前で亡くなっていきました。

前の日まで普通に会話していた人が次の日にはもう目を開けず、言葉を交わすことができない姿に変わってしまうのが人の世の常なのでしょう。

どれだけ泣き叫び、後悔しても、死んでしまった人とは会話することはできません。

「『明日という日はないのが仏法』という言葉の意味がわかりました」というのが遺言となりましたが、そう語った自分の明日という日がなくなり、次の世へ旅立つことになるとは本人は夢にも思っていなかったに違いありません。

明日があるという思いほど不確定なことはないのに、間違いなく明日はあると信じて生きているのが人間の実態です。

不確かなことを間違いないと信じていることほど危ういことはありませんが、そんな危ういところに人生設計を立て、予定を計画していることを知れば、計画の見直しを迫る必要がでてくるでしょう。

人生最後の日は30年も40年も先の話ではなく、今、わが身に迫った身近な問題なのです。

死の縁と人生最後の日

亡くなった友人を追悼する予定の私も今年も追悼できる側にいるとは限りません。

今年の追悼法要では追悼する側から追悼される側になっている可能性もあるでしょう。

年齢や体調と無関係に死の縁がやってきたら、人生最後の日です。

死の縁無量なり、病におかされて死する者もあり、剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火に焼けて死する者あり、乃至寝死する者もあり、酒狂して死するたぐひあり。

これみな先世(せんぜ)の業因(ごういん)なり、更にのがるべきにあらず。
(『執持抄』(しゅうじしょう))

いつどんなことで死んでいくのかわからないのが人生です。

今日が人生最後の日だったらどうするのか?

老いも若きも人生最後の日を意識した時に自分が生きて何をすべきなのかの問いに真剣な解答が迫られます。

亡くなった人を縁に行われる追悼式は亡くなった人を偲ぶだけでなく、残された自分が生きて何をなすべきなのかを問う機会にすることが亡くなった人が最も喜ぶ追悼となるのではないでしょうか?

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ヒロ☆カズ

ヒロ☆カズ

チューリップ企画のヒロ☆カズです。
31歳で肝臓の病気にかかり、2度の入院を経験しました。朝起きて仕事に行く。休日は友人と出かけるという当たり前の日常を失い、初めて、朝起きて仕事に行けることが当たり前でないことに気が付きました。
当たり前の1日がかけがえのない1日であることに気づけば、悩みが感謝の心へ変わるのかもしれません。闘病中に読んだ本や勇気をもらったさまざまな言葉からヒントを紹介したいと思います。
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