「幸せってなんだろう?」パフェに見る人間の幸福感の実態とは

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こんにちは。九条えみです。

楽しみにしていたパフェを食べた女の子

それは私がまだ小学校3年生くらいの頃だったと思います。

家族でレストランに入ったときのこと。

少し離れた向かいのテーブルに5歳くらいの女の子とお父さんが座りました。

女の子は誕生日か何かお祝い事だったのか、レストランに入るなりパフェを頼み「まだかなまだかな♪」といった様子でワクワクしながらパフェが来るのを待っていました。

念願のパフェは女の子の顔くらいある大きさで、目を輝かせ、口いっぱいの笑顔で女の子はパフェを食べ始めました。

お父さんもそんな娘さんを見て心底嬉しそうでした。

すごくニコニコしながら食べていたのですが、5歳の女の子が食べきるには、あまりにもパフェが大きいことは、小学生の私でも分かりました。

・・・半分もいかないくらいでしょうか。

次第に女の子のスプーンを進める速度が遅くなり、顔は泣きそうな、なんとも言えない顔をしていました。

そして

お父さん。もうパフェいらない。これ食べて

というようなことを言ったのでしょう。

嫌なものを見るかのようにパフェをぐいっとお父さんの方へ押しやりました。

その時、すごく切ない気持ちになったのは、お父さんの悲しそうな表情を見たからです。

きっと、5歳の女の子はパフェを食べに行くことをずっと楽しみにしてきたでしょう。

そして、念願のパフェを食べ始めた娘の笑顔にお父さんも満足し喜んだことでしょう。

しかし、そのパフェは自分に向けられたのです。

娘を喜ばせたかったのに、楽しい時間はあっけなく終わってしまったと、無言でパフェを食べながらお父さんは感じていたのではないかと思いました。

そんな親の気も知らず、嫌なこと(?)から解放された女の子は1人楽しそうに遊んでいました。

人間の幸福感の実態とは

パフェを食べる女の子のエピソードは、小学生の私に「人の幸せの実態」を気づかせてくれた思い出深いものです。

私たちは、幸せになりたくて、何かを求めます。

小さな女の子でいえば、パフェでした。

待ちに待った最初の一口は、「美味しい!」「幸せ!!」の一言でしょう。

しかし、パフェを食べれば食べるほど、幸福感は反比例していきました。

そして、お腹がいっぱいになってからのパフェは「苦しい」に変わるのです。

私たちは「これが手に入れば、幸せになれる」と信じて、日々何かを求めています

それは、お金であったり、健康であったり、すてきな恋人や伴侶、かわいい子ども、職場での昇進、便利な車、快適なマイホーム、将来役に立つ資格、美味しいご飯、美しさや若さ、一目置かれる能力、旅行や趣味など色々あります。

それらの求めていたものが手に入ったときに、私たちは喜びを感じます。

ただ、人間の幸福はそこでは終わらないことを、大なり小なり皆さん感じていることだと思います。

幸福に身を委ね安心しきっていても、残念ながら幸福感は次第に色あせていくのです。

パフェでいえば「満腹」という状態になってからのパフェは「苦しませるもの」に変わります。

人間の幸福感を表したこんな言葉があります。

苦しみの新しい間を楽しみといい

楽しみの古くなったのを苦しみという

「本質は苦しみである」ということが幼い頃は分からなかったのですが、経験を重ねるうちに実感するようになりました。

「幸せとは何か」

「いつまでも色あせない崩れない幸せはあるのか、あるならどこにあるのか」

本当の幸福を示されたものが、お釈迦様の説かれた「仏教」であると知ったときに、私は続けて学んでみようと思ったのでした。

欲しかったものが手に入ったのに、なぜ満たされないのでしょうか?

詳しくはこちらの記事をごらんください。

欲しいものが手に入ったのに満たされないのはなぜ?有っても無くても変わらないこと

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九条えみ

チューリップ企画では、お客様サポートおよびウェブでの情報発信を担当しています。仏教を学んで約10年。仏教の視点からお悩み解消のヒントをご紹介できればと思います。
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